法話の間

観心本尊抄

しばしば他面を見るに、ある時は喜び、ある時は瞋り、ある時は平に、ある時は貪現じ、ある時は痴現じ、ある時は諂曲なり。瞋は地獄、貪は餓鬼、痴は畜生、諂曲は修羅、喜は天、平は人なり。他面の色法においては、六道共にこれあり。

「現代語訳」

たびたび他人の顔を見ますと、ある時は喜びにあふれ、ある時は怒りに燃え、ある時は平静ですが、またある時は貪欲(むさぼりの心)を表情に示し、ある時は愚痴(真理を理解する能力がない)の表情であり、ある時には自分の意志を曲げて人にこびへつらう表情があります。怒るのは地獄界の表情であり、貪るのは餓鬼界、おろかなのは畜生界、へつらいは修羅界、喜ぶのは天界、平静なのは人界です。したがって、他の人の顔の表情という色法(形質)を見ると、地獄界から天界までの六道はそこにすべて揃っているのです。

 
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秋元御書(筒御器抄)

器は我等が身心を表す。我等が心は器の如し。口も器、耳も器なり。法華経と申すは仏の智慧の法水を我等が心に入れぬれば、或は打ち返し、或は耳に聞かじと左右の手を二つの耳に覆ひ、或は口に唱へじと吐き出しぬ。譬えば器を覆するが如し。或は少し信ずる様なれども又悪縁に値うて信心うすくなり或は打ち捨て或は信ずる日はあれども、捨つる月もありこれは水の漏るが如し。

「現代語訳」

器は、我等の身心を表しています。我等の心は器のようなものであり、口も器、耳も器です。法華経というものは、仏の智慧の法水ですが、それを我等が心に入れると、あるいは打ち返し、あるいは耳に聞くまいと左右の手で二つの耳を覆い、あるいは口に唱えまいと吐き出すのは、例えば器を覆すようなものです。あるいは少し信ずるようであっても、また悪縁にあって信心が薄くなり、あるいは打ち捨て、あるいは信ずる日はあっても、捨てる月もあります。これは水が漏れるようなものです。

 
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四信五品抄

濁水心なけれども、月を得て自ら清り。草木雨を得てあに覚あって花さくならんや。妙法蓮華経の五字は経文にあらず、その義にあらず、ただ一部の意のみ。初心の行者その心を知らざれども、しかもこれを行ずるに、自然に意に当るなり。

「現代語訳」

濁った水も月を浮かべて自ずと澄んでくるように、草木も雨にあって花を咲かせるように、妙法蓮華経の五字は単なる経文というのではなく、月であり雨の役目を果たすのであり、意味は理解できなくとも初心の行者は信じさえすれば法華一部の真意をおのずと体得することができるのです。

 
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