妙信寺ブログ

6月15日供養法要

令和7年6月15日(日)午後1時より供養法要を厳修いたしました。

梅雨明けを思わせるような、それこそうだるような暑さで体調も崩しがちな陽気が続いております。今日も曇り模様から、にわか雨は降りましたが、雨上がりの後は蒸し暑くなりました。このよな中で参拝に来られた檀信徒の皆さまお疲れ様でした。

読経前、皆さんの前で話す機会があり、何を話したら良いだろうかといつも悩みます。話し下手に加えて話題性に乏しい私にとっては大いなるストレスです。自我偈三転読では途中で聞こえなくなることがありますので、試みに補聴器まがいの機器を左耳に付けて臨みました。意外と聞こえるので少しはストレスが軽減されるのではないかと感じています。緊張感の中でお務めすることは自己修行に繋がることは間違いないのですが、引き続き御修行させて頂きます。

さて14日(土)11時より、御檀家さんの第13回忌法要のお務めをさせて頂きました。十数名の方がお参りに来られました。遠方より来られた方もおられ、ご家族、ご親族で、故人様を供養されることは素晴らしいことと感じた次第です。

終わりに菩薩行研究所の「グリーフケア」の活動として、9月14日(日)午後2時~4時に法華宗宗務院において、平成13年に大阪教育大学付属池田小児童殺傷事件で愛娘を亡くされた、本郷由美子さんを講師に招き講演会を実施する旨の案内がありました。合掌 善徹記

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6月1日 月例祈祷会

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6月1日 月例祈祷会を厳修致しました。

 

法要前には法華経の中に説かれる例え話「三車火宅」のお話をさせて頂きました。

お経文というと、「尊い」「神聖」などのイメージをお持ちの方が多いと思われますが、実際に経典を開いてみますと、

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↑これらの漢字は実際にお経典に書かれている害虫らです。

世間様のイメージされる「お経」からは想像のつかないような、文が沢山出てきます。

これらは魑魅魍魎、害虫を意味しこられの害虫は我々の煩悩、いわゆる人間として生まれたからに必ず誰しもが持ち合わせてしまう心の底に眠る粗悪さの多さを意味します。

お経文の中にはこれら魑魅魍魎、害虫が500以上います

と説かれています。

 

これら沢山の魑魅魍魎の潜む家が火事になっていてそこに住んでいるのが、

衆生=我々だ。と説かれています。

しかもその火事や魑魅魍魎がいることにすら気づかずに悦楽に浸っていると説かれているのが火宅の由来です。

そして、その極悪な窮地から巧みな方便を用いて救ってくれるのがお釈迦様でありお題目ですよ。

と説かれているのが三車家宅の喩になります。

 

 

 

教え的な面では、お釈迦様の用いた「巧みな方便」、「大白牛車」にスポットを当てなくてはいけないのかも知れませんが、今回は我々の心の奥底に潜む「煩悩、粗悪の多さ」に視野を当ててお話させて頂きました。

 

合掌 善隆 記

 
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5月18日 月例供養会

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5月18日、月例供養会を厳修致しました。

前日の雨模様とは打って変わり大変気持ちの良い気候の中お経があげられました。

 

法要後には住職より、先日の京都本能寺で行われた千部法要の報告がなされました。

近年、少子化の問題もあってか、当宗門の修行所「興隆学林」でも修行僧の減少傾向が如実に表れており、住職や善隆が修行していた頃は、4月に修行所に入りたての若々しい修行僧が千部法要のお手伝いをさせて頂くということが当たり前の時代でした。しかしながら、近年では修行僧の数少ない為もあってか、修行所に入りたて僧侶が緊張した面持ちで法要手伝いをする、ということが見られなくなってしまったことや、僧侶だけではなく一般参拝者も10年前、20年前と比べて大きく減少してしまったことへの私見を述べ法要の結びとなりました。

 

私も修行時代、5月の千部法要の時期になると、一年生のころは先輩や先生に煽られ叱られながら、まずは本能寺の境内のどこに掃除道具があるのか、塔頭のお坊さんに失礼があってはいけないよう、全塔頭名とそれぞれの住職の名前にはじまり、法要中どのような動きをしなくてはいけないかを、徹夜の勢いで同期とともに必死に覚えたことをつい昨日の事のように思い出します。そして自分が先輩になると一年生の頃の自分は「あれだけ必死にやったのに」を後輩に押し付けてしまい、後輩に対して厳しく当たってしまったこと、今となってはとても反省しています。

 

きっと千部法要の時期になると毎年このような反省を思い出すことになるんだろうな、と。

感じながら住職の話を隣で聞いておりました。

故人を思い出すことが供養であるなら、

反省を振り返ることも罪障消滅に繋がることを信じ精進して参ります。

 

合掌 善隆 記

 

 

 
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